専務取締役杜氏の純米酒ブログ

期せずして杜氏になっちまった造り酒屋後継ぎの純米蔵奮闘記

絶好調てっぺん

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『絶好調てっぺん』さんと、『炙縁(あぶりえん)』さんという居酒屋の名前は、このブログにも何回か登場してますよね。信濃鶴もお世話になっている、東京のイケイケ居酒屋さんです。どちらのお店もうかがわせていただきましたけど、入店するなり店員さんの元気はつらつのパワーに圧倒されるような楽しいお店なんですよ。

会社組織とすると、『株式会社絶好調』っていうのが親会社で、そこがいくつかの店舗を経営しているっていう形みたいです。私が少し誤解していたのは、もうひとつ同じような名前で『有限会社てっぺん』っていう会社もあって、そこの社長さんが先日宮田にもお越しになった大嶋さんという方で、株式会社絶好調は有限会社てっぺんから独立された吉田さんっていう方が社長さんらしいです(汗)。

まぁ、頭のこんがらかりそうなことはさておいて、とにかくこの絶好調さんと信濃鶴は数奇な運命で出会ってしまったわけです(笑)。始まりは、なんと仙台の錦本店さんで、仙台出身のともやんが働いているっていうんで、炙縁さんにサンセールさんと飲みに行ってみたら、そこの店長さんは何と駒ケ根出身で、その時すでに鶴は炙縁さんで使っていただいていたんですよね。

その後、更に皆さんに信濃鶴は可愛がっていただいて、現在お店には、絶好調てっぺんさん専用のレッテルを張った鶴が置いてあるという未確認情報もあります(笑)。とにかく、ともやんがすごく肩入れして、強力にプッシュしてくれているみたいで、感謝感謝です・・・えーっと、今日のお話は、実はこれからなんですが・・・(汗)。

その絶好調の皆さんが、先日蔵に遊びに来てくれました。一番の目的は、炙縁の店長のTさんの駒ケ根の実家に遊びに来るっていうことだったらしいんですけど、ついでに長生社の蔵にも寄っていただきました。時間通りにやってきたのは、お店でも発揮されている元気の良さをみなぎらせた3人の若者たちでした。

こういう若い皆さんと話をしていると、自分がいかにおじさんになってしまったかを実感するんですが(涙)、夢を見続ける姿勢だけは同じつもりで、信濃鶴についてのお話をして、蔵の中を見ていただきました。お店で使っているお酒の素性を知ることは、とても勉強になるでしょうし、お客さんに勧める時の言葉にも力が入るでしょうね。

炙縁さんには、しゅせんの黄身ちゃんたち駒ケ根軍団が、お揃いの鶴Tを着て奇襲したことがあって、その話題でかなり盛り上がりました(笑)。皆さん、地元のファンにオリジナルのTシャツなんかを作ってもらっている信濃鶴のことを、とても羨ましがってくれましたよ。特に、駒ケ根出身のTさんには、地元にもこんな酒があったのかと再認識してもらえたかもしれません。

彼らと話をしていて気が付くのは、「僕は、何年の何月に故郷へ帰って独立します」って、ハッキリとした計画を持っていることなんです。Tさんも遠くない未来に駒ケ根に帰って来て、ご両親の経営しておられる焼き鳥の名店を継ぐ予定だそうです。それは、しっかりと教育された会社の経営方針に沿った人生設計なのかもしれませんね。もうひとつ気が付いたことは、どうしてみんなで色違いの同じ腕時計をしてるのかっていう、素朴な疑問なんですが・・・(笑)。


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国際広場

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昨日は、お説教臭い記事を書いてしまって、スイマセンでした(笑)。あんな話を肝に銘じている私が、もう20年近くも参加しているのが『国際広場』っていうイベントです。これは昨日も書いたように、JICA(国際協力事業団)の青年海外協力隊の訓練所が駒ケ根市にあることを、地域づくりに生かしていこうとするのが一番の目的のイベントです。

もう、難しい話は抜きにして(笑)、私の10年来のこのイベントにおける役割についてお話しましょう。それは、『ワールドレストラン』の店長さんです。この話も何回かこれまでブログに登場していると思いますから、私にとっての歳時記だと思ってお付き合いくださいね(笑)。店長とは言え、シェフでもあり、ウェイターでもある何でも屋なんですけどね。

さて、酒蔵の杜氏としての経験を生かして(?)、私たちが作ったものは・・・今年は『ブリック』と『フォー』でした。ブリックは、アフリカにあるチュニジアという国の、卵を使った揚げ物料理。フォーはご存知の方も多いでしょう、ベトナムのライスヌードルを鶏がらで作ったスープに入れた麺料理です。どっちも、美味しーんだな、これが!

ブリックは既に定番料理となっていて、それを目当てに毎年買いに来るお客さんもいるくらいです。20センチ四方くらいの春巻の皮の上に卵を落とし、そこにエビとアサリとツナなんかを入れて塩コショウで味付けをして、包み込むようにまとめて、そのまま油で揚げるだけです。包むところさえ気を付ければ、誰でも出来る簡単な料理ですよ。

今年の販売目標は250個でしたが、引っ切り無しにお客さんに買いに来ていただいて、2時間半ほどで完売しました。1時間に100個の割合で売れた計算になりますから、かなりのスピードで作っていたことがお分かりでしょう。4人がかりでベルトコンベア方式で作っていくんですが、結構大変な作業ですよ(汗)。

フォーは、あっさりとした味でいくらでも食べられる、日本で言ったらうどんに相当するような料理です。これは、今年初挑戦だったんですが、かねてから私がやってみたいと思っていた料理だったんです。かつてベトナムに行った時に、いろんなところで何回も食べて、すっかりファンになっちゃったんですよね。

今回は、隣の伊那市でベトナム料理のお店を開いているMさんに教えを願って、何とか形にすることができました。スープは簡単に作れるんですが、ライスヌードルをたくさん茹でることが一番のネックでしたね。大量のライスヌードルを、風呂場に置いた大きな容器で、前の晩から冷やかしておいて、ゆで時間を短縮しました(笑)。これも、用意した120食が、あっという間に完売でしたよ。

この事業には、市からもかなりの予算をいただいているわけですが、それも縮小傾向になっています(涙)。多少なりとも、このレストランで利益を上げなくっちゃなりませんから、ネパールのビールなんかも売りますし、信濃鶴もコップに入れて売ったりなんかして・・・鶴の特別純米が1升分くらい売れましたね(笑)。

蔵の仕事が間に合わないなんて言っておきながら、何やってんでしょうね、私は?・・・でも、私の信念は、「酒造りはまちづくり」ですからね。お酒を造るのとブリックを作るのは、どちらも私にとっては同じ重みなわけです。そりゃ、酒造りが犠牲になるほどの状況になれば仕方がありませんが、自分にムチ打って可能になることであれば、お手伝いいただくスタッフの皆さんと一緒に、これからも頑張って続けていきたいですね。


□□□ しかし、今年はキツかった(涙) □□□
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思い出したこと(その4)

『思い出したこと』シリーズはその3までで終りにしようと思っていましたが、今日、駒ヶ根市で『協力隊週間・国際広場』というイベントが開催されて、私も実行委員に名を連ねているもんだから、それに参加していて、また思い出しちゃったんですよね、いろいろと(笑)。これも、とてもブログに書き切れる内容じゃありませんが、ちょっとした小話をひとつご紹介しましょう。

私が卒業して、既に5年以上が経ちますが、『青年会議所』っていう組織が大抵どの市町村にも存在して、私はそこに13年間という長い間在籍していたんです。そこでは、まちづくりとひとづくりっていうことを徹底的に叩き込まれるんですが、本来はいろいろな分野の経験をさせてもらえるのが普通なんです。

ところが、私の場合、どういうわけか『国際化』という分野の事業ばかりを担当させられることが多くて、かなり深くこの地域の国際化っていうことについて考えさせられていた時期があったんですよね。青年会議所の先輩たちが私にそんなことばかりやらせたのは、このシリーズでも書いたように、普通の人より少しだけ学生時代の海外経験が多かったのも理由のひとつだったと思います。

駒ヶ根市で国際化運動が盛んなのは、JICA(国際協力事業団)の青年海外協力隊の訓練所がこの地にあるからなんですよね。市としても、日本にいくつも無いような施設が地元があることを、このまちの魅力として醸成しようっていう思い入れもあるんです。JICAと駒ヶ根市と青年会議所っていうコラボレーションで、いろんな事業が現在でも行われています。

そこで出合ったのが次のお話です。この話は、私が国際化事業やまちづくり事業を、自分のボランティア精神の発露として大切にしようと思っている、最も根っこにあるものを与えてくれた話です。常にそんな事を考えているわけではありませんが、小中学生の前でそんな話をしろと言われた時には、必ずしていますね。

それは、A君とB君とC君のアルプス越えのお話です。

3人はある冬、アルプス越えに挑戦しようと、準備を整えて縦走を始めました。ところが今日は目的地に着くという最後の日になって、天候が大荒れになり猛吹雪となってしまいました。そんな中、それまでの疲れが出て、C君はとうとう動けなくなってしまったのです。利発で一番体力の残っていたA君は、「僕は先に行って救援を頼んでこよう」と一人で吹雪の中を進んでいきました。残されたB君は、その後ろ姿が消えていくのを見ながら「なんとかC君を助けなければならない。ここでじっとしているよりも少しでもふもとの村へ近づこう」と、C君の肩を抱き、とぼとぼ歩き始めたのです。どの位歩いたでしょうか、しばらく行くと雪の中にぽつんと黒い影が見えます。そばまで来て見るとそれは凍死したA君だったのです。その姿を見てびっくりしたのと同時に、B君の頭の中に雷に打たれたようにある考えが浮び上がりました・・・「僕より体力のあったA君は、一人だけで歩いて来たからここで凍えて死んでしまった。でも、僕ら二人はまだ生きている。僕はC君を助けようと思ってここまでやって来た。助けたと思った。だが、違う。僕は一人では動くこともできない、このC君に助けられてここまで来たんだ。C君の肩を抱き、二人で暖め合って歩いてきたからこそ、僕は凍えずに生きていられたんだ!」・・・と。

『助けることは助けられること』というこのお話の続きはありません。

このお話は、人と人とのつながりのあり方の原点を示していると言えるかもしれません。その本質を問うのであれば、人は群れの動物であって、他人との関係の中でしか生きられない。与えることと授かることは、常に一対になっているんだっていうことになるんでしょう。我々のご先祖様も同じことを言ってますよね、『情けは人の為ならず』って。


□□□ クリックは岳志だけの為ならず(笑) □□□
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思い出したこと(その3)

会社の敷地への入口のあたりで、小学生の低学年くらいの男の子2人が、何やらつかみあって小競り合いをしていました。じゃれているんじゃないことはすぐに分かりましたが、まだ本気の取っ組み合いに発展しそうもない。私は心の中で「もっと、やれやれー!」と思ってほっておきましたが、車が来ると危ないと思ってしばらく眺めていました。

昔は、たまにはやったなぁ、大ゲンカっていうか、殴り合いっていうか・・・。いつもはとても仲がいいんだけど、ふとしたすれ違いで、お互いに許せなくなっちゃって、本気でガチンコ勝負に及んだ記憶が何回かあります。誤解のないように申し添えますが、今の私同様、御幼少の私も、心根の優しい穏やかな男の子だったんですけどね(笑)。

でも、そういうケンカは最後までやっちまう方が、私としては結果が良かったんじゃないかな。つまり、取っ組み合いに及んだ方が、後ですぐに仲直りできるからです。元々仲がいいんだから、ケンカなんかしても、家に帰って頭が冷えれば、悪いことをしたって思うに決まってるもんね。殴り合って発散しちゃわないと、いつまでもグジグジとしちゃったりなんかしてね。

男の兄弟がいなかった私は、そういう荒々しいバイオレンスに飢えていたのかもしれません(笑)。どんなに腹が立っても、妹相手じゃ殴る蹴るなんていう行為は許されません。自分の中に鬱積した何かを暴力的な行為で解消するなんて、一般的には許されることじゃありませんが、それができるのが兄弟とか仲のいい友達なんじゃないですかね。

ありゃ、小学校の6年生の時でしたかね。いつも一緒に下校している仲良しのM君と、何が原因だったか忘れましたが言い争いが始まりました。彼も納得しない。私も承知しない。そのうちに、「なによぉ、やるかぁ・・・」ってことになって、道の真ん中で大乱闘が始まりました。周りに人だかりができても、私たちは殴り合い続けました。

「これ以上殴ったら相手が可哀想だ」と思った方が勝ちです。その時には私が勝ちましたね。しかし、そういう勝利に満足感はありません。お袋に顔の傷を問いただされても無視して部屋に閉じこもっていましたが、次の日には速攻でお互いに謝り合いましたね。そうしないと、気持ちが悪くていけない。それ以後、M君とはもっと仲が良くなりましたよ。

問題はその後でした。その日の夕方に、私は担任の先生から職員室に呼び出されました。昨日の大立ち回りが学校にも通報されたらしくて、可哀想な男の子を羽交い締めにしていじめていた悪い男の子は岳志君だっていうことになっているらしい(汗)。なにせ、観客はたくさんいましたからねぇ。その中の大人の人から電話があったらしいんですよね。

「君たちはもういなかったんだけど、先生も昨日現場に行ったんだぞ。どうしてあんなことしたんだ」と切り出されました。「そりゃ、ねーだろー、ありゃ、れっきとしたサシの勝負だ!」と、私は目で訴えましたが、黙って説教を聞いていました。それが、勝った者の役割だと思ったからです。まぁ、先生は分かっていてくれたようでしたけどね・・・。

そんなことを思い出させてくれた2人の男の子たちは、それでもお互いにちょっかいを出しながら帰って行きました。小さな頃のケンカなんて、陰湿なものでなければ、どんどんやってもいいんじゃないかなぁ。もし、あの時のような殴り合いに発展しても、私は傍観していたでしょう。周りが危なくないか、交通整理を買って出てもいいくらい(笑)。


□□□ M君元気でやってるかなぁ □□□
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思い出したこと(その2)

思い出話の2つ目は、今年東北方面を営業して回った時にふと私の脳裏に蘇ってきた、これも私の若かれし大学生時代のことです。20年以上も前の、怖いもの知らずの時の思い出で、時々懐かしく記憶を反芻しています。勉強だけしていればよくって、生活費は親から送ってもらえて、自分で稼いだお金は全て自分のために使えた時代でした。

今年の東北営業は4泊もかけて回る旅でしたから、普段東京なんかで営業に回る装備じゃとても歩けないと思ったんです。東京では、着替え一式を普通の手で持てるくらいのスーツケースに全部入れて、薄めのビジネスバックみたいなのに貴重品なんかを入れて、それを持ち歩くのがパターンです。スーツケースはホテルに置きっ放しにするわけです。

でも、毎日宿泊先が変わる東北ツアーの場合、荷物は常に持ち歩かなくっちゃならなくて、とても手で持って歩けないと思ったもんだから、恥を承知で登山で使うようなバックパックで出かけたんです(汗)。それを背負って、人気の少ない東北の街の中や田んぼ道を歩き回っている時に、大学時代にバックパックひとつで、一人ブラブラと海外に出かけた旅行のことをイヤでも思い出しましたね。基本的には同じような格好でしたからね(笑)。

営業の時にも、駅から相当遠くても歩いてそのお店まで行ってしまうのは、その時に私の中に染みついた癖なのかもしれませんが、一人の海外旅行って誰でもよく歩くんじゃないですかね。海外では言葉が通じにくいから、あれこれ迷って乗り物に乗るのが億劫だっていうのが、お恥ずかしながら私の徒歩好きの一番の理由なんですけどね(汗)。

大学まではとりあえず進学したものの、「自分は何ができるんだろう」というような漠然とした思いが常に私の中にありました。男の子のことですから、何か冒険がしたかったんだと思います。誰にでも気軽にできて、時間がたくさんある大学時代にしかできないことっていうんで、私は一人で海外に行ってみようと思い立ったんです。一人じゃなきゃダメだったんですよね。だって、冒険だもんね(笑)。

資金の調達から一人でやらなくっちゃならないのは、最初から私の中の決め事でした。本当に自分のやりたい事のためにアルバイトに精を出したのは、あの時が初めてでしょう。我ながらコツコツとためて、ついに大学3年の夏休みにアメリカ一人旅を決行しました。出発直前は、こんな事止めれば良かったと結構ビクビクしてましたけどね(笑)。

ロサンゼルス往復の格安航空チケットと、アメリカ国内で1ヶ月乗り放題のバスのチケットを購入した残りの金額14万円を全部ドルに変えて出発しました。それで、アメリカに1ヵ月半も滞在する計画だったんだから、無謀だったなぁ(汗)。なるべく夜行に乗ってホテル代を浮かせたりなんかして、何とか帰って来れましたけどね。アメリカではマックばっかり食べてたから、帰ってきてからしばらくはハンバーガーが食べられませんでしたよ(笑)。

その旅は本当に私を大きくしてくれたと思います。自分で決めたことを、親の庇護の元とは言え、自分ひとりの力で成し遂げたわけですからね。「目つきが変わって帰ってきた」と、お袋も言ってたっけ。珍道中のことを書きだせば、とてもブログには書き切れませんから止めときますが、今でも鮮明に思い起こせるシーンがたくさんありますね。

その後も、中国や南米なんかに長旅を繰り返しましたが、いつでも格好はGパンにバックパックでした。それとほぼ同じ格好で、地図を片手に、少し迷いながら東北の田んぼ道なんかを歩いたもんだから、そんな事を思い出したんですよね。あの時の私は、同じ格好で信濃鶴を売り歩いている今の私を、想像もしていなかったでしょう。それほどあの時とは変わっていない自分は、あと20年後はいったいどこを歩いているんでしょうか。


□□□ 旅行中はお袋は心配で寝込んでたらしい(笑) □□□
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