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専務取締役杜氏の純米酒ブログ

期せずして杜氏になっちまった造り酒屋後継ぎの純米蔵奮闘記

囲む会



昨日のブログでもちょっと触れましたが、秋分の日に合わせてイベントがあって、あまり天気は良くなかった中を東京に行ってきました。たぶん、これが今年の最後の東京営業になると思うんですけど、酒販店さん回りは全て終わってましたから、純粋にそのイベントのためだけに出掛けたような形になりました。一体どれくらい出張したのか分かりませんが、これが最後だと思うと気が楽でしたね(笑)。

今回は、いくつかの蔵元を集めた『蔵元を囲む会』的な催しでした。東京のA酒店さんからお声掛けいただいて参加することになったんですけど、いつもと違うのは、蔵元を集めるのはA酒店さんですが、お客さんを集めるのはあるお酒好きの個人の方だったってことでしょう。つまり、参加者の方達はいつも私的な飲み会に集っている皆さんって感じでした。

そんな会にどんな蔵元さんがお見えになるんだろうと思ってましたが、総勢9蔵が参加されて、たぶんその中では信濃鶴が一番小さい蔵だったんじゃないかと思うくらいに名の知れた皆さんで、私なんか片隅に縮こまってたんですけど、顔見知りの蔵元や、今年蔵見学させていただいたお蔵さん等もいらっしゃって、何とか平常心でした(笑)。

今回のやり方は、蔵元ブースがあってそこにお客さんが集まるって形じゃなくって、お客さん用のテーブルに蔵元が出向いて話をする形にしたいってことだったんですけど、回るべきテーブルが12個もあって結構大変でした(汗)。自分が歩くとなると持って行けるお酒も1種類だけになっちゃいますから、どれを飲んでもらうかも悩ましいところでしたね。

お客さんは、案外コアな方が多かったっていう印象でしたね。利き酒師みたいな資格をお持ちの方も何人かおられましたし、居酒屋の経営者や従業員の方とも名刺交換させていただきました。一般の参加者の中でも、鶴のことを初めて知って気に入ってくれた方もおられましたから、意外と宣伝効果は高かったのかもしれません(笑)。

今回は、会場準備や、飾り付けや、片付け等は全て主催者側でやってくれて、私達蔵元は行くだけっていう感じでしたし、時間も午後の3時間程度とそれほど長くありませんでしたから、他のイベントと比べると身体は楽な方でしたね(笑)。今や日本酒イベントは数が多くなっちゃって、どこまで参加させていただくか迷うところですが、お客さんとの触れ合いは何にも代え難いんですよねぇ。


□□□ 相変わらず準備中の写真です(汗) □□□
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じいさん(おわり)

ここまで書いてきたように、私にとっても信濃鶴にとっても大きな存在だったじいさんでしたし、現在の酒造りの基礎もじいさんによってもたらされてきたものであることに疑いの余地はありませんが、それでも酒造りから離れて早19年が経って、当時のままの感度で現在の酒造りが続いてきたってわけでもありません。

じいさんがいなくなって19年ってことは、私が杜氏役をやるようになって19年ってことですから、私自身だってもうそんなに時が過ぎたのか驚くくらいですが、今から考えると蔵に入って下働きで働いていた最初の8年間の方が、その後の19年間よりも長かったような気がしますね。それだけ得るものも多かったってことなのかもしれません。

その間に、仕込み設備は変わり、蔵人も変わり、何よりも純米しか造らないようになり、考えようによっては大変革を遂げてきて、酒造りの細かい部分はそれなりに進化してきているわけですけど、だけどその精神の部分と言うか、酒造りに対する姿勢は全く変わっていないと思ってるんですよね。

今の普通純米酒に通じる商品も、じいさんが造ったものの中にあったりなんかします。純米規格なんだけどアルコール度数を落として飲みやすくして、値段は普通酒と同じっていう商品がかつての鶴のラインナップの中にありました。たくさん売れる商品でもありませんでしたが、しっかりとした固定客もついて、私の純米蔵の発想の一部をなしてましたね。

かつてよりは圧倒的に蔵人の数は少なくなって、機械で補っている部分がおおいにありますから、今の若い者にどうやってその精神を伝えていくのか、それはもう、今度は私の背中を見てもらうしかありませんが、今自分たちがやっている仕事は過去の偉人の肩の上に乗ったものだってことはしっかりと教えていきたいもんです。

じいさんの話は尽きませんが、あとはその面影を胸に、新しい時代に向かって行くだけです。次なる展開はどうなるのか。何をどう考えるべきなのか。新しい展開に翻弄されることもあるかもしれませんが、命がけで天国への階段を上る後姿を、私は忘れることはないでしょう。


□□□ じいさんシリーズ終了です □□□
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じいさん(その4)

じいさんシリーズも書き始めると止まりませんが、あれほど馬鹿が付くくらいに真面目で、素直で、研究熱心な男は私の人生ではまだ巡り会ってはいなくて、それほどまでに私としても影響を受けた人物だったってことなんだと思います。師と表現するにはあまりに陳腐な気がするんですけど、師のような、親父のような、友人のような、何とも不思議な存在ではありましたね。

私としては、酒造りの技術的なことも十分に教わったものの、それ以上に、仕事に対する情熱というか、命のかけ方を学ばせてもらった気がします。蔵に入ったばかりの頃は、どうしてこの人はこんなにも熱心に酒造りに対峙しているのか、社会人になりたての若造には理解できない不可思議とも言える気迫がじいさんにはあったんですよね。

麹造りを任されるようになっても、吟醸の麹は私には触らせませんでしたが、手伝いは必要になってましたから、私も夜中でも早朝でも一緒に二階の麹室に入るんですけど、吟醸仕込みの最終盤にでもなれば階段を上るのもやっとのことで、よろめきながらもまるで天国への階段を踏みしめるがごとくでした。それでも、「じいさん休んでろよ」と私に言わせない気迫がありましたね。

もう、今年で蔵働きは最後だという年に、じいさんは吟醸麹の半分を私に造らせました。吟醸麹の種付けは最も繊細な作業ですが、自分で半分種を振り、残りは私が振るように言って種切り器を私に手渡して、「もう、これでこんな事もやれん」とホッとしたような寂しいような面もちでつぶやいたのを今でも覚えています。

引退して身体が思うように動かなくなった後も、冬になると酒造りモードに入っちゃうんだと、フミちゃんが笑いながら言ってました。私にも電話をかけてきて、あれやこれや指示を出してくれましたね。50年に渡って酒造りに携わった習慣は、死ぬまで抜けることはなかったようです。28歳で杜氏になったといいますが、酒造りの責任者として命をかけた人生はいつまでも続いていたんでしょう。


□□□ 私が杜氏を引き継いだのが34歳でした □□□
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じいさん(その3)

じいさんとの思い出はたくさんあり過ぎて、特別にここで書くこともできないけど、半年ずつ9年間にわたって寝食を共にしたわけですから、普通の仕事仲間ってよりはお互いのことをよく知ってたはずです。こんな言い方もおかしいかもしれませんが、40近くも歳が離れている親友みたいな間柄だったような気がしますね。

私としては輝かしい職歴を誇る名杜氏への尊敬がありましたし、じいさんから見れば孫みたいなヤツが何とか酒造りを身につけようと頑張っているように見えたでしょう。専務として経営に四苦八苦している様子も、じれったい思いも持ちながら、どこかで応援してやりたい気持ちで見守っていてくれたに違いありません。

ただ、最初からそう見てはくれなかったのも事実でしょう。会社に入った最初の年から蔵に入れられましたが、私の親父とすれば、酒を造れるまでにはならなくても多少なりとも酒造りの事が分かる程度にはなっておいた方がいいっていう判断だったようですし、蔵人達も社長の息子が何をしにくるのかくらいの気持ちで迎え入れてくれてたはずです。

その頃、既に蔵は高齢化してましたから、仕込みやタンク洗いや米担ぎなんかの重労働は一番若い私の仕事でした。吟醸のもろみなんかには触らせてもらえなかったし、麹室の中で何がされているかも全く分かりませんでしたね。こんな事じゃ酒造りなんて勉強できはしないと、半分イジケながら仕事したもんです。

結局、その経験は後になって私の自信につながったんですけど、若い時の苦労は買ってでもしておけってことが理解できたのは、もうじいさんが蔵にいなくなってからのことでしたかね。蔵に入って3年か4年経った頃、私のお袋に「専務はようやく使えるようになってきましたよ」と言っているのを聞いた時には心底嬉しかった。

じいさんが蔵を去る前の数年間は、蔵への泊まり込みは私と2人だけになって、夜の晩酌は差しつ差されつで、昔の酒造りから自分の若い頃の武勇伝まで毎晩聞かされたもんです。同じ話を10回くらいは聞いたかもしれませんが、本当に心を許してくれているのがよく分かりました。そんなこと家族にも話さないんじゃないかって話も聞きましたね。

それと同時に、蔵の仕事もいろいろ任されるようになって、麹造りから帳面付けから出品酒の選定まで、およそ杜氏がすべき仕事は一通り教わることができました。じいさんとしても、技術的なトップシークレットを教える相手として私は都合が良かったかもしれません。私の酒造りはじいさん譲り。信濃鶴の中に今でもじいさんは生きています。


□□□ 頭の固さもじいさん譲りかな □□□
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じいさん(つづき)

いい雰囲気の葬儀なんてないのかもしれないけれど、そんなに悲しいばかりじゃない、旅立つ人を暖かく送り出す気持ちに包まれたお葬式でしたね。新潟のお葬式がそんな感じなのか、年齢的にも病状的にも親族に気持ちの準備があったからなのか、じいさんの人柄によるものなのか、いい最期の時だったと思いました。

式場には1時間ほど前に着いたんですけど、じいさんの奥さんのフミちゃんが出迎えてくれて、ずっと私に付きっ切りで話し込んでましたね。根っからの酒屋もん人生でしたから、自分の亭主が命をかけたお酒のことを一緒に話せるヤツを待っていてくれたようです。「オメエさん来るのを楽しみにしとった」と、話は尽きませんでしたね。

長い間家で介護してたわけですから苦労話が多いんだけど、夜中に突然起き出して麹の温度を見に行こうとしたり、米を洗うように言いつけてみたり、今年の蔵人を集めるんだと仲間に電話したり、全てが酒造りがらみの大ボケだったと2人で大笑いしました。フミちゃんも気丈に振る舞っていたのかもしれないけど、前向きでいられるようで安心しました。

そんなフミちゃんを筆頭に、親族の皆さんも信濃鶴のことをよく知っていて、長生社の社長さんが来たとご挨拶をいただきました。とにかく、冬の酒屋働きが至極当たり前だった地域ですから、お酒造りについても抵抗なく話が弾む方達が多くて、当然赤の他人の葬式じゃないとしても、まるで自分も親族のひとりみたいに感じられましたね。

式も終わって、火葬場での最後のお別れではどうしたってみんな涙声にはなるものの、孫やひ孫まで涙を流している様子を見れば、蔵じゃ厳しいことを言ってたくせに、こっちじゃいい年寄りして好かれてたな、じいさん。最期まで全ての事にやる気を持っていたことが素晴らしいと病院の先生もおっしゃっていたようで、そんな様子をみんなも見てたんでしょう。

いろんな幸せを残して旅立ったはず。親族の皆さんの口からは感謝の言葉ばかり。でも、ここにいる誰とも違う、また別の大きな物を受け継いだのは自分かもしれないと私は思ってました。酒屋バカ一代の生き様を目の当たりにして私が得たものは大きい。市井にも師はいると教わりました。また、向こうでな。じいさん、さらばだ。


□□□ 大きな斎場でした □□□
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